私たちの人生はお金のためにある訳じゃない
私たちの人生はお金のためにある訳じゃない
先日、60代前半の女性起業家のセミナーにお邪魔する機会があった。
大まかな内容としては、一般的な家庭で死ぬまでにどれほどおの金がかかるのかと、言った内容だった。
色々と詳しい話が聞けたのだが、正直、聞いていて頭痛がしたし、暗い気持ちにしからならなかった。
人生には3大出費がある。
一つは教育費、二つ目は介護費、そして三つ目は老後の資産という事だ。
教育費は大学卒業までに1人一千万円。
親の介護でホームに入居した場合、利用費は月に20万。それが親が死ぬまで続く。
今度は親が死んだら自分の老後だ。平均寿命を90として。60歳から90歳での生活費が30年間は一億円かかるという。
ざっくりとした見積もりでも、いや、これ、完全にムリでしょとしか言えない内容だったからだ。
だが話を聞いていくうちに、どうしてこれだけのお金が必要なのっか、内訳を聞いて納得した。
教育費に関してだ。
塾の費用に年間60万。冬季講習夏期講習でも10万ほどかかる。
さらには大学の学費が年間100万円ほど。遠方の大学に行くとなれば下宿先やアパート代などの支払いも発生する。
私立か公立か。また住んでいる土地や子供の個性によって金額は変わると思うが、概ねはこのような内容だった。
これはお金がかかる訳である。これだと1人でも大変だ。2人3人となれば確実に家が破産する。
介護もそうだ。
訪問介護などの一時的なサービスに比べると、ホームの入居へかかる金額は跳ね上がる。
3食つけて寝泊まりすればもうホテルと同じだ。月20万。これが年金が補填出来るのであれば少しは安くなるが、両親がホームに入居するとなるとキツさは格段に上がる。
親には生きていてほしいと思うが、長く生きれば長く生きるほど金は嵩む。年金で払えきれなくなり、マイホームを売り払いホーム代に当てる家庭も多いのだという。
若い時に必死に働いて手にいれた夢のマイホームが、老人ホーム代に回るのだ。
わたしだったら何とも言えない気持ちになると思う。
老後もだ
老後の生活費日の内訳は、平均で27万円らしい。
まあ日本には年に二億以上稼ぐ高額所得者もいるのだから、この平均値というのは多めに設定されているとは思う。
食費が六万六千円
住居費、一万二千円
家具、事務用品は一万円
交通費、通信費二万八千円
保険医療費一万五千円
娯楽費、二万四千円
被覆、履物代、六千円
光熱費二万円弱
その他の出費5万円
端数はきっているので金額は前後するが、大体はこんな感じだ。
ちなみにうちはあまり金銭的に豊じゃない。
子供2人、4人家族。生活費が20万を切っている我が家よりも、老人世代の暮らしの方がはるかに水準が高い。
老人2人で食費が六万もかかるのか。娯楽に二万円もかけられるのか。実にゆとりのある生活だと思う。こんな生活。働かず30年も送っていたらそりゃ破綻するだろう。
さらには死んだ後には葬式をする。葬式代だって平均200万だ。
生きるにしても死ぬにしても金がかかる。
いや、かかりすぎている。
一通り説明を終えた後に、彼女はこんな話をしてくれた。
今の日本はものすごいスピードで、世界から落ちぶれているのだという。
年金は毎年のように減額され、所得は下がり、貧困層が増えてきている。
以前の日本人は海外旅行に沢山行けていた。海外の方が物価が安かったからだ。それが今やどうだろうか。海外からの観光客が沢山来るようになった。彼らは日本に買い物に来ている。もはや逆転してしまっている。海外からすると日本は物価の安い国へと転じてしまった。
日本はくだりジェットコースターに乗っている状態だ。
借金も増えて、この先大変なことになる。このままだと沈没してしまう。
だからと言って、みんなと一緒に落ちちゃダメだ、這いあがらないといけない。
誰かが這い上がればきっと皆がついてくる、流れも変わる。
だから豊かな老後のため中がんばらないと。と、
息巻く彼女の話を聞いていて、私はどうにもしっくりこなかった。
むしろ怒りさえ覚えた。
一つは金だ。
私たち日本人は金を稼ぐためだけに生まれてきたのだろうか。
お金がないと生きてけない。
この国では常識的な考えだ。それは理解している。
だけども、豊かな老後を過ごすために、若い時代は仕事に明け暮れ、良い仕事をするために良い大学に入り、良い大学に入るために膨大な教育費を掛けて勉強し、勉強するために自由な時間を削る。
家族との時間は。自分の夢は。友情は。
どうやらこの国では、そう言ったものは後回しらしい。しかもかなりの後回しだ。景気が回復して収入が増して、ようやくその余裕ができるのだ。いつになるかわからない。だから定年してからやるのだろうか。
でも、これじゃただ金を稼ぐだけのマシーンだ。
金を稼いで、使って、金がないと嘆き続ける。生きてる間常に金に悩まされる。
それと、また、頑張れだ。
私たちはいつまで頑張ればいいのだろうか。
私が新入社員として働いていた時から、景気が良くなったことはない。なのに、会社は頑張れの一点張りだ。謎の過剰サービスをスタッフにさせて、収益が無いのはやる気がないからだと言われ続けてきた。
頑張るとは、仏教用語で我を張るという意味だ。
我を張るのだから、意地を通す、無理を通すと同意語になる。
それをしてきて、日本は変わっただろうか。
変わらない。いや、維持すらできていない。頑張ったって落ちている。落ち続けている。
だったらさっさとやめて新しい方向を向けばいい。なのに、まだしがみ付けと言うのだろうか。
彼女のセミナーはここで終わった。
私は早足で会場を立ち去るとコンビニに向かった。購入した炭酸を口に運び大股で帰路を歩き進めながら、一つのことを決意した。
こんな人生、絶対におくりたくない。
さあどうしようか。
不安はある。だけども私は進もうと決めた。