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本音で話すと言うことはきっと、人に嫌われる事なんだ
先日とあるプラットフォームで、同じような年代の女性と情報交換をする機会があった。
みんな子供が小さかったり、家での生活が重だったりする。生き方に悩み始め、激変していく社会のあり方に戸惑っている方だった。
これからどう生きるか。何をやって生き抜くか。色んな意見を交換し合いましょう。そういった場であったので私は自分の思うことを言ったのだが、私が話始めると彼女の顔色が明らかに悪くなった。
その方は今の社会にとにかく戸惑っていた。
家のローンをどうしよう。子供の教育費をどう賄おう。親の介護は、自分の老後は。親と同じように老いていくと思っていた世界が崩れ始めていることに、本気で不安を感じている。だけどもこの現状で何をしたらいいかわからなくて、立ち止まってしまっている。そんな方だ。
気持ちはとてもよくわかる。
子供を産んで、育てて、老後を迎えて、趣味を満喫して、残り少ない生を満喫して死を迎える。
そんな一生を思い描いていた。だけどもそれは過去のものだ。今は子供を産んで仕事をして、大卒までの教育費を必死に稼ぎ、終わったと思ったら今度は親の介護。その後はいよいよ自分の老後だ。
人生100年といわれる昨今では、定年退職後の時間が30年近くあることになる。若者のようには働けない。なのに金はかかるのだ。不景気が続く日本では年金なんてあてにならない。老後も働け。なんとかして金を調達しろ。趣味なんてやってる暇はない。馬車馬のように働いて金を稼げ。もうそんな世界だ日本は。
人生こんなはずじゃなかった。
もっとゆっくり子育てできると思っていた。もっと余裕のある生活ができると思ってた。毎年のように海外旅行に行けると思っていた。
彼女はそう語っていた。
確かに私もここまで急速に社会が変わるとは思っていなかった。
元々いい景気になるとは思っていなかったが、ここ数年の変容っぷりはものすごいものがある。不安になるのも当然だ。
だけども現実はこうなのだ。嘆いていても仕方がない。過去を羨んでいても、状況が変わるわけでもない。
だから私は諦めようと思っている。
金のために生きて、一生金を心配して、若い今を犠牲にして、死んでいく生き方なんて本当にごめんである。
私は今、お金に依存しない生活を模索している。
金を使わなければ金を稼ぐ必要は減る。
お金は必要最低限のことにかけたい。食費は医療費などだ。それらは削ることは出来ないが、そのほかは減らすか代用するなりして抑えられるはずだ。
教育費は塾に行かせるより通信教育で。通信教育代も惜しいなら、教育系の動画を配信しているYouTubeなどで代用可能だ。ネット上には定額で利用で着る多種多様の学習appもある。勉強は金がかかる。もうそんな時代じゃない。
留学だってそうだ。世界を見せるために、海外に子供を留学させたい親は多いだろう。だけども個人で行くのが絶対の方法じゃない。低価格でいける市や県での交換留学生もある。やる気があれば留学ではなくワーキングホリデーという方法だってある。学習も出来て金ももらえるのだ。そっちの方が金がかからず勉強できる。
学用品もだ。
制服はバッグなど、入学準備費は嵩む。
しかし、そもそもだ。なぜ新品を買う必要はあるのだろうか。
最近、制服のリユースの話を聞くようになった。いい活動だ。使えるものは使った方がいいいい。制服は学校でしか着ないたった3年間の服だ。着る本人が良ければお下がりだって悪くない。
そういえば知人が子供のランドセルをお下がりのものにしたらしい。彼女曰く、一年目はカバーに入っていて見えないし、新品だってカバーを外せば一年で傷がつくと言っていた。お子さんはそのことを微塵も気にしていないそうだ。
考え方をシフトすれば、思い込みを捨てれば、方法を工夫すれば、お金って使わないでも行けるんじゃないだろうか。
私は意見としてそれを伝えたのだが、彼女の顔色は悪いままだった。
それが理由かはわからないが、前回は一時間ある対話は15分以上早く終わった。その後、機会を設けてくれたことお礼のメッセージを送ったが、三日経っても彼女からの返信はない。
私は思う。
ああ、私は彼女に嫌われたのだ。と。
きっと、私の言葉は彼女を傷つけたのだろう。
彼女の意見に合わなかったのだろう。彼女の欲しかった言葉と真逆のことばかりを言ってしまったのだろう。彼女を責め立てるように聞こえたのかもしれない。
なら当たり障りのない言葉を言えばよかったのだろうか。
生きてくのはお金がかかるよね。
どうしたらいいかわからないよね。
不安だよね。今まで通りに暮らしたよね。でもきっとなんとかなるよね。景気が回復するからこのままでも大丈夫だよね。
でもそんな歯触りの良いことばかりを言っていたら、プラットフォームで意見交換をする必要はなかったことになる。
言葉は強力だ。
人は言葉一つで傷ついたり、イライラしたり、幸福になったりする。
私の考え方は少し偏っていることは十分に自覚している。
私が話すことによって、傷ついたり嫌な気持ちになる人はたくさんいるんだろうと思う。だから話さない方がいいんだと。聞き役に徹していた方がいいんじゃないかって、一般論を差し障りなく述べることの方がいいんじゃなかと思うことが頻繁にある。
でも、それだと駄目なんだ。
今の私は自分を変えたくて、自分以外の誰かが必要だ。
その誰かに会うためには自分を曝け出さないとだめな気がしている。
表面と取り繕って、あたり触りのない話をしているだけでは、きっとその人たちには会えないだろう。
嫌われても、あからさまに変な顔をされても、自分を発信し続ける必要がある。
本音を言うということは、人に嫌われるという事なんだ。
残念だと思う。悲しいことだと思う。
仲良くなりたいが、仲良くなれなかった。
傷つけたいわけじゃなかった。傷つけてごめんと思う。
きっと二度と彼女からの連絡はないだろう。
それでも自分の心を偽らずにいてよかったとも思うのだ。
自分を騙して、本当に言いたいことを言わないでいたら、一生このままだ。
それは嫌だ。
私は飛び立ちたい。
私は自分の人生を行こうと決めた
アメリカザリガニはとても美味い
アメリカザリガニはとても美味い
今日は天気が良かったので、近くの公園にザリガニ取りに行った。
そこはザリガニ取りで少し有名な公園だ。近くに人工の小川があり、どじょうや沼エビ、そしてザリガニがいる。ザリガニとは、もちろんあのアメリカザリガニだ。
ウシガエル用の餌としてアメリカから持ち込まれたわずか数十匹を川に放り込んだことにより、大繁殖した。それによってメダカをはじめとする日本固有の魚が消えていっている。
どうやら来年は危険外来種のカテゴリーに入るらしく、大々的な駆除が全国的に行われるんじゃないかと思っている。
我が家のは2人の男の子がいる。
まだ園児と小学生低学年だ。生き物に興味津々である。
ザリガニもその対象内で、彼らは公園に行くたびに山ほど釣ってくるのだ。
さて、問題はここからだ。
そのザリガニをどうするかである。
ザリガニは外来種だ。できれば川にリリースするのは避けたい。そうすると川のどじょうがザリガニに食われてしまうかもしれない。鳥の餌として近くに放ることも考えたが、ザリガニは案外タフだ。水がなくてもある程度の距離は歩いてしまう。このまま川に戻ってしまったら意味がない。
でも飼育するにしては多量だ。毎回30匹ほどを連れて帰ってくるのだ。
ただ無駄に殺すのはどうにも気が引けた。
殺す提案をしたのだが、子供の無垢な瞳に見つめられてダメだった。
考え抜いた末、最終的に至った結論が、食うことである。
ザリガニは元々食用だ。
ヨーロッパなどでは夏の風物詩らしい。日本では馴染みがないだけで、世界的に見れば立派な食料である。私には中国人の知り合いがいるのだが、彼女が何故あんなに美味いザリガニを日本人は食べないんだと、笑って言われたのを思い出し、ネットで調べて調理した。
結論から言うと、美味かった。
煮るとロブスターのように真っ赤になり、実はプリプリだ。これを炒めて食べたのだが、歯応えの良いシャコのような味で非常に食べ応えがあった。
小さいザリガニは食べにくいが、それでも、しっかりとエビの味がして美味かった。
あまりに美味かったので夫にも勧めたのだが、ザリガニ=汚い川のイメージが強いのか食べてもらえなかった。
なら友人や姉妹はどうか。彼らにザリガニの事を話したのだが、みんなマジか!?と言うだけで食べたいという人間には出会えてない。
非常に残念である。こんなに美味いのに。ザリガニは食べるものでなはい、といった固定観念があるのだろう。
それゆえ彼らは食べないのだ。
先日、上野のアメ横センターに香辛料を購入しに行った。ここは地下が輸入食品店となっていて、輸入された生きた食品が売っている場所だ。そこには立派なケースの中によく見るアメリカザリガニが売られていた。しかも百グラム百五十円でだ。そこそこの値段である。
また店内を見れば川で巨大化し、問題となっている外来種の鯉なども売られている。
世界的に見ればザリガニは食べることの方が常識だ。なのに日本はザリガニを食べずに駆除しようとしている。
鯉もだ。鯉は臭みはあるが食べれる魚だ。日本の川で巨大化して問題になっているが、鯉は中国ではメジャーな食料だ。素揚げにして餡かけや甘タレをかけたら絶対にうまい。
そういえば昔の日本人は鯉を食べる地方もあったのだ。今では海魚が主流なのであまり習慣はないが、昔の人は食べていた。そう思うと駆除はある意味フードロスなんじゃないかって思う。
立つ場所によって常識は異なる。
そんなこんなで、私は今日も取ったザリガニの泥抜きをしている。二日後には食卓にザリガニ料理が並ぶ予定だ。
ザリガニは冬眠前の今が旬だ。料理が非常に楽しみである。
私たちの人生はお金のためにある訳じゃない
私たちの人生はお金のためにある訳じゃない
先日、60代前半の女性起業家のセミナーにお邪魔する機会があった。
大まかな内容としては、一般的な家庭で死ぬまでにどれほどおの金がかかるのかと、言った内容だった。
色々と詳しい話が聞けたのだが、正直、聞いていて頭痛がしたし、暗い気持ちにしからならなかった。
人生には3大出費がある。
一つは教育費、二つ目は介護費、そして三つ目は老後の資産という事だ。
教育費は大学卒業までに1人一千万円。
親の介護でホームに入居した場合、利用費は月に20万。それが親が死ぬまで続く。
今度は親が死んだら自分の老後だ。平均寿命を90として。60歳から90歳での生活費が30年間は一億円かかるという。
ざっくりとした見積もりでも、いや、これ、完全にムリでしょとしか言えない内容だったからだ。
だが話を聞いていくうちに、どうしてこれだけのお金が必要なのっか、内訳を聞いて納得した。
教育費に関してだ。
塾の費用に年間60万。冬季講習夏期講習でも10万ほどかかる。
さらには大学の学費が年間100万円ほど。遠方の大学に行くとなれば下宿先やアパート代などの支払いも発生する。
私立か公立か。また住んでいる土地や子供の個性によって金額は変わると思うが、概ねはこのような内容だった。
これはお金がかかる訳である。これだと1人でも大変だ。2人3人となれば確実に家が破産する。
介護もそうだ。
訪問介護などの一時的なサービスに比べると、ホームの入居へかかる金額は跳ね上がる。
3食つけて寝泊まりすればもうホテルと同じだ。月20万。これが年金が補填出来るのであれば少しは安くなるが、両親がホームに入居するとなるとキツさは格段に上がる。
親には生きていてほしいと思うが、長く生きれば長く生きるほど金は嵩む。年金で払えきれなくなり、マイホームを売り払いホーム代に当てる家庭も多いのだという。
若い時に必死に働いて手にいれた夢のマイホームが、老人ホーム代に回るのだ。
わたしだったら何とも言えない気持ちになると思う。
老後もだ
老後の生活費日の内訳は、平均で27万円らしい。
まあ日本には年に二億以上稼ぐ高額所得者もいるのだから、この平均値というのは多めに設定されているとは思う。
食費が六万六千円
住居費、一万二千円
家具、事務用品は一万円
交通費、通信費二万八千円
保険医療費一万五千円
娯楽費、二万四千円
被覆、履物代、六千円
光熱費二万円弱
その他の出費5万円
端数はきっているので金額は前後するが、大体はこんな感じだ。
ちなみにうちはあまり金銭的に豊じゃない。
子供2人、4人家族。生活費が20万を切っている我が家よりも、老人世代の暮らしの方がはるかに水準が高い。
老人2人で食費が六万もかかるのか。娯楽に二万円もかけられるのか。実にゆとりのある生活だと思う。こんな生活。働かず30年も送っていたらそりゃ破綻するだろう。
さらには死んだ後には葬式をする。葬式代だって平均200万だ。
生きるにしても死ぬにしても金がかかる。
いや、かかりすぎている。
一通り説明を終えた後に、彼女はこんな話をしてくれた。
今の日本はものすごいスピードで、世界から落ちぶれているのだという。
年金は毎年のように減額され、所得は下がり、貧困層が増えてきている。
以前の日本人は海外旅行に沢山行けていた。海外の方が物価が安かったからだ。それが今やどうだろうか。海外からの観光客が沢山来るようになった。彼らは日本に買い物に来ている。もはや逆転してしまっている。海外からすると日本は物価の安い国へと転じてしまった。
日本はくだりジェットコースターに乗っている状態だ。
借金も増えて、この先大変なことになる。このままだと沈没してしまう。
だからと言って、みんなと一緒に落ちちゃダメだ、這いあがらないといけない。
誰かが這い上がればきっと皆がついてくる、流れも変わる。
だから豊かな老後のため中がんばらないと。と、
息巻く彼女の話を聞いていて、私はどうにもしっくりこなかった。
むしろ怒りさえ覚えた。
一つは金だ。
私たち日本人は金を稼ぐためだけに生まれてきたのだろうか。
お金がないと生きてけない。
この国では常識的な考えだ。それは理解している。
だけども、豊かな老後を過ごすために、若い時代は仕事に明け暮れ、良い仕事をするために良い大学に入り、良い大学に入るために膨大な教育費を掛けて勉強し、勉強するために自由な時間を削る。
家族との時間は。自分の夢は。友情は。
どうやらこの国では、そう言ったものは後回しらしい。しかもかなりの後回しだ。景気が回復して収入が増して、ようやくその余裕ができるのだ。いつになるかわからない。だから定年してからやるのだろうか。
でも、これじゃただ金を稼ぐだけのマシーンだ。
金を稼いで、使って、金がないと嘆き続ける。生きてる間常に金に悩まされる。
それと、また、頑張れだ。
私たちはいつまで頑張ればいいのだろうか。
私が新入社員として働いていた時から、景気が良くなったことはない。なのに、会社は頑張れの一点張りだ。謎の過剰サービスをスタッフにさせて、収益が無いのはやる気がないからだと言われ続けてきた。
頑張るとは、仏教用語で我を張るという意味だ。
我を張るのだから、意地を通す、無理を通すと同意語になる。
それをしてきて、日本は変わっただろうか。
変わらない。いや、維持すらできていない。頑張ったって落ちている。落ち続けている。
だったらさっさとやめて新しい方向を向けばいい。なのに、まだしがみ付けと言うのだろうか。
彼女のセミナーはここで終わった。
私は早足で会場を立ち去るとコンビニに向かった。購入した炭酸を口に運び大股で帰路を歩き進めながら、一つのことを決意した。
こんな人生、絶対におくりたくない。
さあどうしようか。
不安はある。だけども私は進もうと決めた。